湿地の少女
沼にはまる。
『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ/著、友廣純/訳、早川書房
ノースカロライナ州の湿地で村の青年チェイスの死体が発見された。
人々は「湿地の少女」と呼ばれているカイアを疑う。
6歳のときからたったひとりで生き延びてきたカイアは、果たして犯人なのか?
湿地の小屋でたったひとり生きるカイアの孤独。
でも自分は本当の意味での孤独ではないと、カイアは知っていたのかもしれない。
読んでいる間、ずっとぬかるみに足を取られているかのような感覚でした。
もどかしく、時に絶望しながら。
著者のディーリア・オーエンズは動物学者で、アイダホ州に住みグリズリーやオオカミの保護、湿地の保全活動を行なっているそうです。
驚くことに、この物語は69歳で執筆した初めての小説とのこと。
これほどまでに祈りながらページをめくり、そして呆気にとられた本はなかった。
本当に面白かったのです。
馬と娘
美しい馬の物語。
『野うまになったむすめ』ポール・ゴーブル/さく、じんぐうてるお/やく、ほるぷ出版
馬が好きで、馬の気持ちがわかる不思議な力をもった娘がいた。
いつものように馬たちと草原ですごしていたある日、雷をともなった嵐に追われて、娘と馬たちは村から遠く離れた山へ迷い込んでしまう。
そこへ、美しいおす馬が現れ、ここで一緒に暮そうといい…。
アメリカ・インディアンの娘と馬の物語。
偶然手に入れた『オオカミのうた』でポール・ゴーブルが描き出す世界に惹かれ、他の絵本を探したらどれも絶版。
そんななか、ようやく古本で見つけたのがこの絵本です。
やっぱり絵がいい。
素朴な語りに、シンプルに見えながら大胆であり細密な絵。
アメリカ・インディアンの世界を見事に伝えてくれます。
こういう美しい絵本を、美しい世界を、世の中から消え去っていかないようにしていきたい。
1979年にコルデコット賞を受賞した作品です。
猫魂
命はすべて等しい。
『猫だましい』ハルノ宵子 /著、幻冬舎
自身の闘病、両親の介護と看取り、猫たちとの出会いと看病そして別れ。
すべて等しく「生命」について綴ったエッセイ。
漫画家・エッセイストである著者は、吉本隆明の長女であり、よしもとばななのお姉さん。
吉本隆明も愛猫家としてよく知られていますが、その魂を受け継いだハルノさんの愛猫ぶりもまた尊敬に値するレベルです。
猫の命を愛している。
とはいえ、この本の半分は人間の話です。
ハルノさん自身の闘病記は、かなりヘビィ。
なのにユーモアあふれる筆致と楽天的思考で、かなり面白い。
病気、特にがんを怖れる人はとても多いと思いますが、これを読むと、闇雲に怖れることがちょっとバカらしく思えてくるかもしれません。
この先の人生、もし私ががんと宣告されたら。
その時は目の前が真っ白になるかもしれないけど、でもこの本のハルノさんの楽天的思考を思い出して、私も「めんどくさいなーでもしかたない」くらいの気持ちで病気と闘えたらいいな。
猫の命も人間の命も対等に愛している。
そんなハルノさんに惚れてしまいました。
こわがりなトラ
なにがこわいの?
『こわがらなくていいんだよ』ゴールデン・マクドナルド/さく、レナード・ワイスガード/え、こみやゆう/やく、長崎出版
とってもこわがりなトラのこは、いつもがたがたふるえていました。
「なにもこわがらなくていいんだよ」と、お父さんとお母さん。
一緒にジャングルのなかを見て回ることにしました。
マーガレット・ワイズ・ブラウンがゴールデン・マクドナルド名義で発表した絵本。
私はブラウン&ワイスガードコンビの絵本ファンで、コレクションしています。
ネコ科であるトラの絵本というだけで素敵なのに、この愛らしさといったら!
表紙の子トラ、頭がおにぎりみたいでキュートすぎます。
次々に登場する動物たちもいきいきと描かれていて迫力があります。
黒、黄、白、緑の4色しか使われていないのが不思議なくらい。
大きな動物にも、小さな動物にも、それぞれにこわいものある。
だから、闇雲に怖れたりせずに、勇気を持って世界をみよう。
両隣りにはいつでもあなたを見守ってくれる存在があるのだから。
寅年の今年、紹介せずにはいられないトラ絵本です。
あなたも私も
通りすぎるまえに。
『ほんのちょっと当事者』青山ゆみこ/著、ミシマ社
わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。
様々な社会問題を「自分事」として考えてみた社会派エッセイ。
社会派なのに明るくて、ユーモアあふれてます。
ローン地獄、児童虐待、性暴力、障害者差別、看取り、親との葛藤…。
ここまで曝して大丈夫なのかと心配になってしまうほど、自身の体験を赤裸々に告白していて、それが私達読者の中に眠っていた(隠していた)小さな当事者意識の欠片を呼び起こす力になっているのだと思います。
誰にだって小さな当事者の欠片があって、でもそれはきっと忘れたり隠したりしたい類いのものだから知らないふりをしている、それがきっとそこらじゅうにあふれている「無意識」のひとつの形なのではないでしょうか。
私にも「当事者」はいくつもあって、いくつかは人に話したことがありません。
だってそれは忘れたいことで、隠したいことだから。
そのなかのひとつに幼少時代のことで、最近になって発達障害の症状として認められるようになったものがあります。
青山さんが本の中で触れていた「おねしょ」のように、今は「治療すれば治る」ものとして認識されるようになっていたり、あるいは発達障害の症状のひとつだと理解されるようになっているけれど、ひと昔前までは「心の持ちようだ」と軽視され、きちんと向き合うこともさせずにいたことは多くありました。
たんなる甘えだ、心が弱いからだ、と。
それに名前がつけられ、発達障害の症状のひとつに認識されていることを知ったきっかけは、勤務先の図書館で選書中に見つけた1冊の本でした。
その本を読んだときの驚きと安堵は、忘れることができません。
まだ本になり始めたばかりの頃でその1冊しかなかったけれど、こうして研究され理解され世間に認識されていくことが、どれだけの子ども達を救うことになるか…、それを思うと泣けてくるほど嬉しかった。
私が子どもだった当時、それを理解できる大人はいなくて、自分でもどうしようもできなくて、とてもツラい幼少期でした。
運動中に水を飲んではいけないと信じられていた時代。
学校を休んではいけない時代。
ついてこれない奴が悪い、弱音を吐くことは負けだ、とわけのわからない精神論がものをいっていた時代。
今だから客観的に分析できるけど、当時は自分でも理由がわからない上に、先生にとことん追い詰められるものだから、全部自分が悪いのだと思っていました。
大人になった今、自分が悪いわけではなかったと知ることができて、少し救われたけれど、当時を思い出すと先生から受けたひどい仕打ちに今でも心がキュッと縮こまる思いがすることに変わりはありません。
今の子ども達にあんな思いをさせることがないよう、きちんと大人の理解を広めていかなくてはいけないと思います。
私の「当事者」も、あなたの「当事者」も、ちょっと声をあげるだけで誰かを救うかもしれない。
みんなのなかの当事者スイッチをほんのちょっと押してくれる1冊です。