ネコオドルのほんのつぶやき

自然豊かな小さな町で、猫4匹と暮らしています。小さな本屋「ネコオドル」店主が、本のこと猫のことなどをつぶやきます。

あなたも私も

通りすぎるまえに。

f:id:nekoodoruneko:20220116155854j:plain
『ほんのちょっと当事者』青山ゆみこ/著、ミシマ社

わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。
様々な社会問題を「自分事」として考えてみた社会派エッセイ。
社会派なのに明るくて、ユーモアあふれてます。

ローン地獄、児童虐待、性暴力、障害者差別、看取り、親との葛藤…。

ここまで曝して大丈夫なのかと心配になってしまうほど、自身の体験を赤裸々に告白していて、それが私達読者の中に眠っていた(隠していた)小さな当事者意識の欠片を呼び起こす力になっているのだと思います。
誰にだって小さな当事者の欠片があって、でもそれはきっと忘れたり隠したりしたい類いのものだから知らないふりをしている、それがきっとそこらじゅうにあふれている「無意識」のひとつの形なのではないでしょうか。

私にも「当事者」はいくつもあって、いくつかは人に話したことがありません。
だってそれは忘れたいことで、隠したいことだから。

そのなかのひとつに幼少時代のことで、最近になって発達障害の症状として認められるようになったものがあります。
青山さんが本の中で触れていた「おねしょ」のように、今は「治療すれば治る」ものとして認識されるようになっていたり、あるいは発達障害の症状のひとつだと理解されるようになっているけれど、ひと昔前までは「心の持ちようだ」と軽視され、きちんと向き合うこともさせずにいたことは多くありました。
たんなる甘えだ、心が弱いからだ、と。

それに名前がつけられ、発達障害の症状のひとつに認識されていることを知ったきっかけは、勤務先の図書館で選書中に見つけた1冊の本でした。
その本を読んだときの驚きと安堵は、忘れることができません。
まだ本になり始めたばかりの頃でその1冊しかなかったけれど、こうして研究され理解され世間に認識されていくことが、どれだけの子ども達を救うことになるか…、それを思うと泣けてくるほど嬉しかった。

私が子どもだった当時、それを理解できる大人はいなくて、自分でもどうしようもできなくて、とてもツラい幼少期でした。
運動中に水を飲んではいけないと信じられていた時代。
学校を休んではいけない時代。
ついてこれない奴が悪い、弱音を吐くことは負けだ、とわけのわからない精神論がものをいっていた時代。

今だから客観的に分析できるけど、当時は自分でも理由がわからない上に、先生にとことん追い詰められるものだから、全部自分が悪いのだと思っていました。
大人になった今、自分が悪いわけではなかったと知ることができて、少し救われたけれど、当時を思い出すと先生から受けたひどい仕打ちに今でも心がキュッと縮こまる思いがすることに変わりはありません。

今の子ども達にあんな思いをさせることがないよう、きちんと大人の理解を広めていかなくてはいけないと思います。

私の「当事者」も、あなたの「当事者」も、ちょっと声をあげるだけで誰かを救うかもしれない。

みんなのなかの当事者スイッチをほんのちょっと押してくれる1冊です。